主張する事と認め合う事
人を批判したり見下す事はとても簡単でありますが(正しい批評はそれなりの
エネルギーが必要ですが)、人を許したり違う価値観を受け入れる事はとても
難しい。イエス・キリストは自分を憎む人間さえも愛し、他人の過ちさえも神に
許しを乞うた。冷静に考えるとこれは普通なら絶対にできない事であります。
「人を殺してはいけない」と言う宗教の教えと「人を殺さなければならない場合
もある」と言う現実論は、国家の成立と社会的背景の中で矛盾を孕みながらも
両立していく。
カミュのシシュポスに例えられるように、人間は神から与えられた誇りを保ち
ながらもやはり同じ歴史的過ちを繰り返す生物であり、試行錯誤しながら前に
進んで行く。五感が受けるデジタル信号は、心(魂魄)と言うフィルターを
通過するとシンフォニーを奏で、喜怒哀楽欲のドラマを産み出してしまう。
陰陽(デジタル)は心の八卦の中を縦横無尽に走り回り、64卦の心相を醸し出す。
あらゆる価値観を受け入れると言うのは容易ではなく、個々のフィルターに大きく
左右され判断基準も異なるが、受け入れる器だけはこれから必要不可欠であります。
極端に言うと〃殺人〃という行為はは受け入れられないが、その原因と土壌の許と
なる根本的な要因は吟味されるべきであるという処迄は、民主国家であれば司法制度
と言う形で、宗教的或は霊的には供養という形で受け入れる事はできる。
生物が自分の生活圏を脅かす相手を除去しようとするのは生理現象である。
罪を憎んで人を憎まずは、遠きにありては可能でも、当事者であれば少なからず
遺恨を残してしまう。憎しみの大地である中東においては尚更である。
決死の覚悟でイラクの戦地に赴き護摩を焚きましょうか。
天道が世に出る為には、宗教的側面のみならず科学的側面もアピールする必要が
ある。天道理論の一部分を形成する易の論理はコンピュータ理論に相通じ、守玄の
全体像は医学や食養の糧となり、理天の世界は、宇宙論の未知なる領域に光を見い
だすものであり、理天神という天道独自の神々は天界のヒエラルキーを考える時、
非常に興味深い存在であります。三宝は宇宙物理学の対象となり得るものであり、
天壇の設計図は将来的な宇宙船の青写真と成り得るものであります。
そして霊能者が受けるインパクトは神社仏閣のそれとは一線を画するものである
らしい。更には有気気天はチャネラーの琴線に響くものであります。
宗教組織としての天道ではなく〃道〃はあらゆる場に在るもので、それこそ
素粒子一個一個に備わっており、その相補性が形を変えると愛になり全てを包含
する。次の地上天国においては天道がグローバルスタンダードとなる訳ですが、
正直言って中国の神様に世界が跪くとは到底思えない。
始皇帝の時ならいざ知らず、昨今の世界情勢を顧みると中国は未だポイントは
マイナスである。個々の天壇は別として、もし世界にアピールするとしたら、
三佛のイメージは変更する必要があるのではないでしょうか。
ふざけるな!と言われるかもしれませんが、世界を統括する理天神としての
絶対的イメージやネーミングがどうしても欲しい。
別派分派の垣根を越える程の魅力的な天道を構築する事が急務で、
天道と言う山なら山頂はひとつの筈。道外に共通の相手を想定する事で道内が
纏まる事も夢ではない筈。離れても何故か気になるお天道様.......
組織とし欧米流のトップダウン式と日本流ボトムアップ式の一長一短を再確認
して、意志の伝達をスムーズに図るべきでしょう。
by gyou-syun-u
| 2007-04-26 18:02
| 天道